多分すぐ飽きる

どうせじき飽きるので、適当なことを書いています。

存在を忘れられるということ

仮免許が取れたのでお盆の数日間だけ帰省をしました。疲れが取れてよかった。

 

帰省の最終日に墓参りに行ってきて、母方のおばあちゃんに会いに行ってきました。おばあちゃんは結構前から認知症が酷くなってきて、少し前に施設に預けられました。もうほとんどこっちのことは覚えてなくて、行くたびに自己紹介をしては「もう何にも覚えてないんよ」と笑うおばあちゃんに笑みを返していたものです。

 

今回もそんな感じだろうなぁと思って行ったんですけど、今回は顔を見ても反応がない。どうしたんだろうと思っていると、おばあちゃんが悲しそうに、

 

「どちらさん?」

 

て言ったんです。その瞬間に今までの思い出がフラッシュバックしてきて、それを脳内でたどりながら、「あぁ、もうあの日々は返ってこない」と痛感しました。おばあちゃんが認知症を発症しかけていた頃に母方の祖父が亡くなって、その時も同じようなことは思ったんですが、今回のほうが生々しかった。理由とか考える余裕もないです。ただただきつかった。顔が引きつってどうしようもなかったです。

 

母と行ったんですが、母ももうほとんど覚えられてなくて、顔を見ても名前が出てきてないくらいでした。向こうからしてみれば他人みたいなものが二人、自分のテリトリーに侵入してくるようなものですよね。そのことにあの場で気付いてしまったものだから、正直一刻も早く出ていきたくて仕方がなかったです。「写真、撮ろか」と母が言い、二人で写真を撮りました。写真に写ったおばあちゃんはあんまり笑っていなくて、この空間はどこまで心に効く毒を漂わせているんだと、本当に苦しかったです。

 

存在を忘れられるということは思い出を否定されるということで、きっとおばあちゃんが死んだとしても今より苦しくないと思います。それは俺の中の「おばあちゃん」が今この場で死んでしまったからで、このいわゆる「精神的な死」が、俺には何よりもキくからなんだろうなと思います。実際昨日のことなのにブログに書いたの今日だしね。ちょっと整理しなきゃダメでした。いやはや、きついね。

 

今回はやけに施設を出るのが早くて、早いなと思っていたら母が「ずっとおっても同じこというだけやしな」と言ってて、本当に生きることには苦しみが付きまとうなと思いました。