多分すぐ飽きる

どうせじき飽きるので、適当なことを書いています。

人と関わって生きるのがしんどい

範囲の広いタイトルですが別にここでいう「人」の範囲は全人類とかいう訳ではないです。とはいえ自分もどこまでの範囲の「人」なのかがよく分かっていないのでこんな題になってしまいました。

 

簡単に自分のことを話しておかないとこれからの話が整理できずにぐちゃぐちゃになりそうなのでします。

自分は昔からとにかく人の目を気にして生きてきました。腕っぷしも強くなければ面白くもなく、友達とは良く遊んでいたけどずっと一緒にいるのは面倒でよく図書室に行っていたような子どもだったと記憶しています。煩わしい人付き合いが嫌いで適当に合わせながら距離を取って過ごしていた結果、親密な関係になった友達は一人としていませんでした。友達の中にはリーダー格のいじめっ子がいて、それに嫌われないようにへらへらしていた幼少期でした。大きないじめはありませんでしたが、嫌われると一応の居場所も無くなってしまうのでそこは自分なりに上手く立ち回っていたんだと思います。

親はとにかく怖い人でした。人間としてはとても真っ直ぐな人で、言動もとても正しかったので、社会的な人間としての基本的な土台はこの人たちのおかげで無事に形成されたと自覚しています。ただ細かい人付き合いのことについては訊かなかったし教えてもくれなかったし、そもそもあまり親は人付き合いが得意なタイプでは無かったので、周りの人とどうやって付き合っていけば良いのかという点についてはまるで手探りのままでした。

親はこちらが正しいことをしている限り叱ることはしませんでしたが、正しくなければそれはそれは厳しく叱ってくれました。人間としてとてもよくできていた両親だったと思います。でも私は人から厳しい言葉をかけられることが本当に嫌でした。なのでとにかく親の逆鱗に触れないよう、大人しく、優等生のような立ち回りを心がけていました。何が親を怒らせるか分からなかったので余計なことは言いませんでした。一般家庭と同じくらい家庭内で話はしていたと思いますが、不用意にふざけて怒られるような真似だけはすまいと心がけておりました。

私は外でも内でも人の目を大いに気にして生きてきました。それはもしかしたら周りから見たら大したことないありふれたことなのかも知れませんが、私はそのありふれたことに全神経を敏感にして、怒られないためのセンサーを研ぎ澄ませながら日々を過ごしていました。

「怒られない」ということは「褒められること」と同義です。なので私は褒められることによって怒られることを回避しようとしていました。生憎私は勉強が出来たので、それによって褒められることが良くありました。でも私は「褒められる」ということをそのまま受け取って喜ぶのではなく、「怒られなかった」という方向にすげ替えて安心していました。小中高に至るまで、私はそうやって自身の心の安寧を図ってきました。高校では人付き合いにおいて人の目を気にすることはほぼ無くなりましたが、それでも対人関係における不安がなくなった訳ではありませんでした。

恐らく私は自己肯定感をとても低いレベルで満足させていたのではないかと思っています。長々と身の上を吐きましたが要するに私は大層人の目を気にして生きてきた人間だということです。やっていることは世間一般では普通でも、私にとっては人生といっても過言ではないほど心血を注いでいたことなのかも知れません。

 

ここからが本題ですが、こんな人生を送った結果、私は人からの好意に大してまるで対応できない人間になってしまいました。

大学に入ると、様々な人から「あなたのことが好きだ」と言われるようになりました。これは恋愛的な意味ではなく、単純に友人、先輩などなどとしての意味ですが、これに対して自分は何も反応を持ち合わせていないということが分かりました。何せここまでの生活で人から好意を伝えられることなどあるはずが無かったのですから、当然といえば当然です。そしてさらに酷いことに、私はその好意を「面倒で苦痛」だと感じるようになってしまいました。

部活の後輩から好意を伝えられ、食事の誘いを受けました。私はそれを先輩としてのことだと理解し、先輩として対応し、食事もしました。しかしその場限りだと思っていたのに、後輩は私と接点を持ち続けようと連絡を取ってくるようになりました。私自身ここまで好かれることが無かったためにとても嬉しいとは思いましたが、連絡が続くにつれその好意が非常に煩わしいと思うようになっているのを感じていくようになりました。先輩という立場もあり、無碍に連絡を断つこともできず、私はもはや苦痛にも思える対象の好意を受け取り続けています。恋愛にも発展しない純粋な好意を、私は唾棄しながら受け取っています。

20何年人の目を恐れ、怯えながら生きてきた結果が、人の好意すらも苦痛に感じるような人間形成なのだとしたら、私は本当に人間として失敗しているのではないかという思いに強くとらわれながらこのブログを書いています。人と関わって生きていくのがとてもしんどい。一人で生きていきたい。誰かと一つ屋根の下で生きていくことなど、どうしてもできるとは思えない。

きっと私はどこにも行けないのだという観念が、ずっと頭を支配している。